開場16:30/開演17:00
1500円+1d
小林寿代
佐々木伶
高野真幸
中条護
平野敏久
山田寛彦
米本篤
『実験音楽スクール』最終回後の飲み会で私は、「このまま解散はもったいないので、みんなでコンサートでもやれば?」みたいなことを酔いにまかせて言ってしまったが、考えてみれば、ものごとの始まりはこういう軽いノリで決まるものである。そう、きっかけなんてなんでもいい。人が集まって、何かが始まるかもしれないーーその気配を感じたら、それがチャンスである。後は野となれ山となれ。なるようになるだけだ。
とはいえ、私がやっていたスクールの受講生による第一回目のコンサートである。それなりに席がうまってほしいと思う。こういう企画は最初は人が来て、徐々にその数が減っていくものであるが、最初から誰も来ないとなると(これは誰の身にも起こりうることになった)、その後の運命を暗示しているようでやりきれないではないか。
しかし、反対のことを言うようだが、人が来すぎてもいけない。それなりの数を維持すること。世間の価値観とは真逆のことをやっているのだから、そこに人が集まりすぎたら、ちょっとオカシイと思った方がいい。それはやがて普通の行為になってしまうだろう。さりとて、継続するにはお金も必要。出来ればちょっとは儲けたい。
お客さんの話に限らず、重要なのはバランスである。子供の絵が芸術にならないのは、そこに「バランス」を見て取ることが出来ないからである。つまり、かろうじて均衡を保っている、というような危うさがない。反対に、その「危うさ」だけで成立する可能性があるのが実験音楽ではないだろうか?
l-eに頼まれたのは宣伝文だった。けれども、なんだか手向けの言葉みたいになってしまった。これはまずい。でもどうやって宣伝したらいいんだろう。「絶対に面白いから来て!」なんて誠実さを欠いたことは言いたくないし、どうしよう?
たぶん、こう書くのがいいだろう。ーー多くの評論家やジャーナリストは、ひとつの芸術の誕生およびその幼年期には無関心を決め込んでいる。彼らはそれが認められてはじめて、それについて何かを言いだすのである。音楽で言えば、彼らは諸々のフェスティバルは行くが、我々がやっているような小さなコンサートには来ない。にもかかわらず、今は有名になったそれらミュージシャンの初期の活動について、あたかも見てきたかのように語るのである。要するに、新しい何かを嗅ぎ当てる直感みたいなものが寸分もないのが彼らの特徴である。私にとってフェスティバルは、数少ない収入源のひとつという意味で、とても重要である。だが、それ以上の意義を見つけるのは正直難しい。友達に会える、とかそれくらいじゃないだろうか? もちろん、時には面白いフェスティバルもある。でも、どんなフェスティバルにおいても、そこで演奏される音楽はよそゆきになりがちである。それが続いて、ついに、そのよそゆきの顔から戻れなくなることもあるだろう(と言うか、ほとんどのジャズはそうなっていると思う)。つまり、そこで演奏される音楽は本来のあり方から逸脱して、だんだんと形ばかりのものなっていくのではないだろうか? まあ、それをありがたがるのもひとつの文化。それはそれでいい。だが、より面白いのは、音楽がそれ本来のあり方で演奏される機会に立会うことである、と私は思う。特に、それが海のものとも山のものともしれない時に立会うことこそスリリングなことはないのではないだろうか? 何かになるかもしれないし、ならないかもしれない。やがて有名になって、御墨付きをもらって、フェスティバルに出て、評論家の餌になるかもしれない。どうあれ、その最初が大切だ。さらに言えば、それが続くことが望ましい。そこには(それなりの)人が集まるんじゃないかな。ただ、火のないところに煙は立たぬ(なんのこっちゃ?)。嗅ぎ当ててもらうには煙が必要だ。この一文がその煙の役割を果たすことを望む。
(杉本拓)
- Published: 29th 08, 2013
- Category: Archive